仁徳天皇の御代(377年頃)、飛騨山中に両面宿儺(りょうめんすくな)という凶族が天皇に背いて猛威を振るい人民を脅かしていた。征討将軍の勅命(ちょくめい)を受けた難波根子武振熊命(なにわのねこたけふるくまのみこと)は、官軍を率いて飛騨に入った(日本書紀)。
武振熊命が、当時の先帝応神天皇の御尊霊を奉祀し、戦勝祈願をこの桜山の神域で行ったのが創祀と伝えられる。
まだ八幡神社がどこにもお祀りされていない時代のですので、当時は応神天皇の神霊をお祀りしていただけでした。
その後、八幡神社の神様は応神天皇としてお祀りされます。聖武天皇の御代(8世紀)諸国に八幡信仰が栄え、往古は数百本の桜樹が花を競い境内はいっそう整えられたとも言われる。
大永年間(室町時代、16世紀)京都の石清水八幡宮より勘請したが、戦乱の時代が続き境内は一時荒廃した。
元和9年(1623)高山領主金森重頼は、江名子川から発見された御神像を八幡神と奉安し、社殿を再興し神領地を寄進した。以後高山北部を氏子と定め、例祭には奉行を派遣して神事を管理した(奉行祭)。
飛騨が天領となり、氏子を初め代々の郡代は篤く崇敬して奉行祭を継承し境内を整えた。
神仏混淆の一時期、別当は八幡山長久寺であったが、明治の神仏分離により長久寺を離れる。明治8年高山の大火ににあい、末社秋葉神社を除きほとんど焼失したが、同年33年までに境内復興が完了する。
戦前の社格は県社であった。昭和51年に神社本庁より別表神社に加列。
戦後、かつて奉行祭と呼ばれた例祭(秋の高山祭)が全国に知られ参拝者は急増する。
古代のパワースポット
清浄な境内を汚すものがこの岩に触れると、気がふれてしまうという伝説の狂人石(きちがい石)。
石とは言いながらも、地上からは突き出ているように見える岩。
本殿や拝殿などができる前の古代の人々は、山や岩などを神々の依り代の信仰の対象として、祭祀を行っていた。古代の祭祀を行った場所は聖域とされて、決して穢してはいけないとされていた。千六百年を越える長い歴史の中で、古代祭祀の岩の場所の聖域を守る言い伝えがこのようになったとされる。
両面宿儺討伐の戦勝祈願も、武振熊命は当然現地の人々が清浄な霊威あふれるとした場所で祈りをささげたに違いない。
この場所が、両面宿儺討伐の戦勝祈願を行った桜山八幡宮発祥の地と想定される。