桜山八幡宮の例祭は、現在は10月9日10日。11台の屋台を曳きだされ、秋の高山祭といわれています。
江戸時代には、8月1日が例祭でした。現在も8月1日に氏子から選ばれた祭礼を取り仕切る年行司が宮司から依頼をうけて例祭準備を始める「祭事始祭」が行われています。
旧暦ですから、現在の太陽暦で換算すると、凡そ9月上旬の二百十日の頃です。台風が訪れる頃もしくはその直前で、稲刈りの収穫の少し前の季節です。
この時期、冷蔵庫等食物の安全な保存技術がなく、医薬に医療技術や知識もなく、農薬もなくて農業技術も遅れた江戸時代。
残暑厳しく、体力が落ちて食あたりや疫病にかかりやすく、稲作や畑作にとっても病虫害に悩む時期でもありました。
また、徳川氏が江戸へ入ったのが8月1日であることから、武士の間では特別な日とされ、八朔は「田の実(タノミ=早稲の米)」を贈答する習慣がありました。天領であった高山でもこの習俗は代官などに伝わっていたと推定されます。
明治5年までの暦は月の満ち欠けに基づく太陰暦であり、山王祭は、旧暦3月15日で必ず満月の祭礼。八幡祭は、旧暦8月1日八朔で必ず真っ暗な新月の祭礼でした。
早稲の田の実は贈答品用程度に多少の収穫はあったかもしれませんが、稲刈りには少し早い時期が八幡祭りの祭礼であり、夜祭は真っ暗な新月の祭礼でした。また高山近隣の多くの神社の例祭は、現在も9月上旬に行われています。飛騨国一之宮水無神社の例祭も昭和中期までは9月でした。
いわば、旧暦八朔の日は、人間の生活にとても大切な日であったのからこそ、例祭が行われ、祖先は神々に祈りを捧げてきました。
古くは、疫病、天変地異、農業を妨げる日照り、長雨、蝗(いなご)などの虫、稲の病気などこうした地域にとって災難は、全て外部からやってくる災厄神の仕業とされました。
こうした災厄神を地域から追い出せば、地域が安泰に暮らせると考え、そのためには、災厄神が恐れおののき尻尾を巻いて逃げるほどの、凄まじい力を持った神にたよったのです。
高山祭の屋台の起源は祇園祭です。祇園祭は、京都の八坂神社の例祭。八坂神社のご祭神は須佐之男命。明治より前の神仏習合時代は、祇園舎といわれて牛頭天王(ごずてんのう)を祀っていました。将に、力強く猛々しい神を祀っています。
祇園祭の始まりは、疫病が流行り天変地異に国を治めるのが困難な時代、日本の国の数に見立てた数66本の鉾を立てて、京の都を曳き廻したのです。天に向かってまっすぐ伸びた鉾の意味するものは、霊の舞い降りるものでした。さらに、鉾にはきらびやかな飾りをつけて非日常を演出したのです。これを風流化現象といいます。風流というのは、茶道や華道などの質素で無駄を排除した侘び寂びに通じるものだけでなくて、華美な派手なものも風流といいます。つまりは、日常ではないものが風流であり、神々が降臨する場所であったのです。
高山祭の屋台を見ても、上段には神社で作られた御幣が立てられますが、屋根の装飾には御幣、宝珠、鳳凰、剣巻竜、玄武など、神霊を呼び寄せる象徴が飾られています。さらに金具、漆塗り、彫刻、織物、人形など、煌びやかな装飾が、日常ではない風流の極みを尽くされています。
遠い昔は、天変地異・気象現象が、平年とちょっとしたゆれ幅で変化するだけで、多くの人々の生命を脅かしたはずです。屋台を煌びやかに飾ることにより、力強い八幡神の降臨を仰ぎ、八幡神の霊威を授かった屋台を曳きまわすことで、地域から災厄神を追い払って、地域の人々の健康で五穀豊穣を祈ったのが、祖先の信仰であったようです。
豊かな生活になった今こそ、改めて、自然の豊かな恵を当たり前と感じないで、感謝する気持ちを大切にしたいものです